日常コラム
「富弘美術館」を訪ねて
先日、群馬県にある「富弘美術館」を訪ねました。
星野富弘さんについてはご存じの方も多いかと思いますが
簡単にプロフィールをご紹介します。
星野富弘さんプロフィール
1946年、群馬県生まれ、中学生の頃から登山を始め、高校では器械体操部に所属。
1970年には、群馬大学教育学部体育科をご卒業になり、中学校の教諭になられました。勤務して数か月の頃、クラブ活動の指導中に頸髄を損傷し、首から下の運動機能を失いました(そこから9年に及ぶ入院生活)。
1972年、群馬大学病院に入院中、口に筆をくわえて文や絵を書き始め、1979年、入院中に前橋で最初の作品展が開かれました。
その後、雑誌や新聞に詩画作品や、エッセイを連載。外国でも個展が開かれるなど世界中の方に知られるようになりました。
「星野富弘美術館」のサイト↓
https://www.city.midori.gunma.jp/tomihiro/index.html
富弘美術館にて
富弘美術館は住宅地からはかなり離れた場所にありました。
一歩館内に入ると、外と高低差がないフラットな構造で、車いすの方への配慮も感じられます。
そして作品は円形の壁面に配置されていて、ほどよい歩幅でゆっくりじっくり拝見することができました。
どの作品の言葉も絵も、心に響くものでした。
作品を見終わると、奥にはビデオ室がありました。
ビデオ室では、富弘さんのこれまでの経緯や富弘さんがお話しされている映像、学友の方々のコメントなどが流れていました。
私は富弘さんの詩画集はみたことがありましたが、録画動画としてお話しされているのは初めて拝見しました。
とても活発でユーモアがあって知的で面白い元気な方という印象でした。これまで私が勝手に抱いていた印象とは異なっていて親近感を覚えました。
心に残ったこと
富弘さんの作品は素晴らしく、どれも手を使わずに描かれていることを忘れてしまいそうになります。
それでも当然のことながら最初は筆で名前を書くのもままならなかったとのこと。これだけ読みやすい字に制御するのも大変だったと思います。
絵については、絵具の色を混ぜて作るのは、最初はお母様で、ご結婚されてからは奥様が担われていたそうです。
最初は作りたい色が出来ずに、お母様にも文句を言ったりしたようです。
長年にわたるお母様や奥様の献身に思いを馳せようとしますが、私の想像力ではとうてい追いつきません……。
あるエピソードが印象に残っています。
食事は、お母様が富弘さんの口元にもっていって食べさせていたのですが、あるとき手がすべって富弘さんのお顔にこぼしてしまったそうです。
富弘さんはそれに腹を立ててご飯粒をぶちまけてしまったとのこと。そしてお母様は、その散らばったご飯粒を片付けていたと。
富弘さんの人間らしい一面と辛い気持ち、お母様のお気持ちはいかばかりであったかと想像します。
私自身の想い出
私が星野富弘さんを知ったのは、1983年頃、14~15歳の頃です。
悩みが多かった思春期。薦めてくれた人がいて、詩画集を手にとりましたが、今思うと、そのころは富弘さんの気持ちや凄さがよく分からずにいました。
その後、時折星野富弘さんの詩画を目にする機会はありました。それでもなんとなく受け流してきました。
今回ご縁があって40数年ぶりに再び星野富弘さんの作品をじっくり鑑賞させていただきました。
日常の心情をつづった詩の数々。
私自身も様々な悩みや苦しみがあるからなのか、今の世相に疲れているのか、富弘さんの言葉や絵が深く染み入ります。
せっかくなので家でも鑑賞させていただきたいと、美術館の販売所にて詩画集を購入し、家でも一つ一つ大切に読ませていただきました。
視点と表現力……
「いのちより大切なもの」の表紙は私の母が好きだった「おだまき」であるのも嬉しい
今回、詩画集の他に三浦綾子さんとの対談集「銀色のあしあと」も購入させてもらいました。
私は、その昔、母からの勧めで「塩狩峠」を読み、影響を受けました。
塩狩峠の主人公のような人のために生きることができるようになりたいと大真面目に思っていました(あの頃のわたしはどこに行ったのでしょう……)。
そのようなことも懐かしく思い出し、嬉しく感じました。
この対談集を読んで知りましたが、富弘さんは三浦綾子さんに憧れておられ、最初に読まれたのが「塩狩峠」だったとのこと。
対談集には、奥様との出会いや日常のことも書かれており、富弘さんの周りの方々の素晴らしさにも感動しました。
一粒の麦
星野富弘さんは、今年2024年4月28日に呼吸不全で78歳の生涯を閉じられました。
一粒の麦の話を思います。
これからも星野富弘さんの詩画作品によって多くの方の心が救われるのでしょうね。
ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
美術館裏の景観